追憶の川崎・ロッキードT−33

 川崎・ロッキードT−33はその名が示すとおり、ロッキード社製T−33を川崎重工でライセンス生産したものである。通算で65000機以上が生産され、30カ国以上で使用された。
 母体は朝鮮戦争で活躍したP−80C(後のF−80)シューティングスター戦闘機である。これを改造し、練習機としたのが本機である。当初はTA−80等と名乗っていたが、後に正式にT−33の形式が与えられた。
 自衛隊には警察予備隊時代より供与が開始され、後に川崎重工でライセンス生産されるなど、F−86Fセイバーと並んで自衛隊黎明期を代表する機体となった。
 米軍より68機が供与され、川崎重工で210機が生産、合計で278機が運用された。
 使用開始当初から長期間を初等、中等練習機として使用されたが晩年は主に部隊配備の連絡機として使用された。
 航空自衛隊では50年に渡って使用され続けた。頑丈で堅実な機体デザインもあるが、機数が多く、機体あたりの飛行時間が少なかったのも長期にわたって使用された要因であろう。
 最終的に、予定通り入間基地の総隊飛行隊が最後の使用部隊となったが、その引退劇は決して明るく華やかなものではなかった。
 1999年。11月22日。年間飛行時間確保のために訓練飛行に上がった一機のT−33が入間川の河川敷に墜落、パイロット2名が殉職するという事故が発生した。原因は燃料系統(ないしは滑油系統)の不具合だったと記憶している。
 この事故により、T−33は全機飛行停止、改修には莫大な費用が掛かるため、結局飛行停止は解除されずに退役を早めることとなってしまった。
 今回、日本の航空界に大きな足跡を残し、自衛隊練習機発展の礎になったT−33をいくつかの写真で細部紹介してみる。

↑94年11月3日。入間基地航空際にて3機編隊で航過飛行を展示する総隊飛行隊(総飛)のT−33。頑丈とはいえ、さすがに年々稼動機は減少しており、編隊飛行も機数が減じていった。

↑前席部分のUP。前部風防と、前席シートの細部が見える。風防の中心部分ワンピースは他の部分と異なり日差し避けのためにブルーに塗装、もしくはフィルムが貼ってあるのが解る。練習機どころか連絡にまで格下げされているので、当然HDDの装備はされていない。

↑着陸後、入間のランウェイを出る飛行点検隊のT−33、#209。入間に常駐する飛行点検隊も総飛と並んで末期までT−33を運用した部隊の一つ。T−33にとっては入間は最後の聖地であった。
 #210からが川崎重工生産分となるので、この機体は米軍供与機ということになろう。
94年1月10日撮影。

↑コクピット部分の全体像。独特なエアインテークの形状。キャノピー全体がわかる。キャノピー可動部分はツーピースのようにとられがちだが、中央のフレームはキャノピーガラスを分割しているわけではなく、ガラス自体はワンピースで成型されている。
 暗くてちょっと見辛いが、エアブレーキの取り付け位置もわかるかと・・・

→胴体中央部下面のUP。こちらの方が展開されたエアブレーキの形状がわかりやすい。
 合わせて、胴体下の補助タンク、主脚のパーツ構成なんかも。
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